No.170 全部放り出して森へ行きたい
子どもたちが小さい頃、神社や公園で網を持って一緒に蝉を探した。
子どもは手でそっとつかめるようになっていたけれど、蝉をカゴに入れて持って帰った記憶がない。他の虫もない。
私はどう説得したんだろう。
少ししか生きられないから、と説明しても、幼い子どもならきっと、エサあげるから、とか言って持って帰りたがったんじゃないかな。
せっかくつかまえたのに、と泣いたりしなかったのかな。
全然覚えていない。
でも、子どもの気持ちを考えて、虫にはわるいけど、とはならなかったはず。
命というものを教えるために、という考えも全くなかった。
いつだったかカウンセリングを受けた時に、動物とか小さな生きものが可哀想な目に遭ってるのがたまらなくしんどい、と話したことがあった。
すると、安心感がないからそう感じてしまう、というようなことを言われて腑に落ちた。
自分が可哀想だと感じるほど他の人が感じているように思えなくて、不思議だったから。
小さな虫が死んだり人にやっつけられたりするのを見る度にこんなに落ち込む自分は、どこかおかしいと感じていたから。
そうか。心に安心感のある人は、人間中心の生活の中で起きる人間以外の生死を、お肉を食べるのと近い感覚で受け入れてるのか。
だから、子どもの腕にとまった蚊をパチンとできるのか。
皮肉でもないし、自分が優しいと言いたい訳でもない。
一つひとつにとてもエネルギーがいる。
それで肝心なことができなかった、というのもあり得るよね。
そんな言い訳を、自分ができなかった数々のことに対して、探しているんだと思う。
言い訳とか、ふり返りとか、後悔とか、全部放り出して、どこかの森の中でのんびり蝉の声を聞きたいな。
きっと行くから、まだまだ生きて鳴いていて、と思う。