「親ガチャ」は幸せになるために
アンカーのランです。
朝から少し片付けができてほっとしているところに排水管清掃の方が来られました。
マンションなので定期的にあるのですが、なぜか今回のことは知らなかったので慌てました。
水回りをきれいにしていなくて恥ずかしい。でもキッチンはリフォーム後なので大丈夫です。
今日は愛着という深い言葉について。
これは長く使っているから愛着がある、という意味とは全然違う意味の、です。
愛着というのは生後すぐに得られるかどうか、今流行りの親ガチャみたいなものかもしれません。
親ガチャなんて、若い人は鋭いですね。
テレビで知りましたが、その「ガチャ」は昔からあるガチャガチャのことではないそうです。
なんでもゲームの中に出てくるのだとか。
でも、年齢の高い人たちにもわかるから、というのもあるらしい。
愛着の話に戻りますが、経済的な格差と違わないくらい、そのあるなしは子どもの人生に影響するのではと思います。
経済的なこと以上だとかそれ未満だとかは、ここではいいことにしますが、強調したいのは、社会が助けるのは難しいということです。
わかりにくい、というのが大きいのですね。
本人ですらなかなか認識できない場合もあるので当然ですが。
一方、ここで大きな疑問があります。
愛着の問題は本当に人生を決めてしまうほどでしょうか。
まず、スペクトラムという概念が様々なところでみんなを納得させていますよね。
一つひとつの程度の違いが、その足し算掛け算ともなるともう誰にも想像がつきません。
それに、その人の持つ様々な能力と理解、人を含めた様々な出会い、偶然の重なりが、人生をなかなか決定づけないのは事実でしょう。
合わせて有力なのは、心についてはまだまだよくはわかっていない、ということ。
また戻って親ガチャですが。
悲しい言葉だと思います。
親ガチャという言葉は、助けを得やすくしたり、抱えているものを整理したり減らしたり、幸せになるために使うのがいいと思うのです。
決してわざとじゃない誰かをわるものにするためではなく。