無頓着は悟りの境地?
アンカーのランです。
夫が早朝から立てる物音で睡眠を妨害されている、という記事を先日書きました。
そこで、読んで下さった方から、自分の出している音に無頓着な人っていますよね、とメッセージを頂き、この何とも言えない言葉を改めて味わうというか、優しい気持ちになりました。
無頓着って…
調べてみました。
(以下はWURK働くあなたのための学びのメディアさんの記事より抜粋させて頂きました)
「無頓着」とは「物事を気にかけないこと」(あるいはその様)です。
元々の語源である「頓著(とんじゃく)」に、「執着すること」という意味があるため、頭に打ち消しの「無」をつけて「執着しない」というニュアンスの言葉になります。
「無頓着」の語源は、仏教用語の「貪着(とんじゃく)」です。
「貪」には「いくらあっても満足しない」という意味があり、「着」には、「執着する」という意味があって「貪着」は「いくらあっても欲望のままに執着すること」という意味がある言葉でした。
この「頓着」を否定した言葉が「無頓着」になります。
現代では、「無関心」「気にかけない」といった悪い意味で使用されていますが、元々は「物事に執着しない」「欲深くない」という仏の教えで、修行をしている人にとっての悟りの境地であったと考えられています。
やっぱり、という感じでしたね。
まさか「悟りの境地」なんて思ってはいませんでしたが。
でも、無頓着という言葉に私はわるい印象をもっていませんでした。
わるぎがない、というのに近いです。
自分さえよければいい、という損得勘定なんて持てていません。
自己中とかお構いなしとかと明らかに違うのです。そんなに自己主張はないというか。
ということは、身近にこの「無頓着」があってもやっぱりもうどうしようもないのですね。
責めても仕方がないのです。
一応文句は言いますが。
悔しいです。やっぱりいっぱい貼り紙してやる、と思っています。