猫のキーホルダーを友だちに
今日は仕事が休みで、友だちとお昼ごはんを食べた。
近所なのに、コロナ渦よりもっと前から会えていなかった。
気を遣わない人なので、前に聞いたかもしれないことも平気で聞ける。
正確じゃなさそうでも話せる。
ほとんど緊張しないで済む時間。
昔から緊張感の高い私はインプットもアウトプットも苦手。
それにほとんどの会話の場合、緊張している脳が、粗相のないように、と指令を出してくるのだから、気楽に話せるわけがない。
楽に話せる、というのは、ようやく自由な会話ができる椅子に座れるようなもの。
脳の締めつけもなく、思いつくままにどうぞ、と放ったらかしにされてこそ、記憶の引き出しが自由にあちこち開く。
そして、スルスルと感情も出てきて、それに伴う言葉もちゃんとついてくる。
話しながら、そういえばそんなふうに思ってたな、と。
自分自身が会話している実感。
ゆったり呼吸をしている感覚。
あれ?ヨガが良さそうだと思っていたけれど、友だちと話すこの感じ、ヨガに似ているのかも。
リハビリも兼ねた。
それでもなぜか父のことは話せなかった。
友だちは最近、今日でもう来てもらわなくていいです、と同僚も全員勤務先を解雇された、とのこと。
私は、絶対どこかで求められてるよ、○○さんみたいないい人、と言うのが精一杯。
そして忘れずに、この間買った手作りの猫のキーホルダーをあげるくらいしかできない。
友だちはいつも私にエネルギーをくれて楽にしてくれるのに。
別れ際もいつも通り、ありがとう、会えて嬉しかった、楽しかった、とたくさんの言葉をくれた。