生きているだけでいい。   大丈夫。

大好きだった父との時間をこれからもっと取り戻すはずだったのに、突然訪れた別れ。いつか、私の人生もなんとかなったよ、と空に向かって乾杯したい。その日まで続けたいブログです。

わざとじゃなかった人とその人を責めていない自分

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アンカーのランです。

 

昨日の続きです。

それは悲しかったね、と言ってくれない人とは。

 


その悲しさを本当に想像できない人。

泣いてはだめ、強く生きなさい、と自分自身が言われて育った人。

混乱の中にいる人。

 

そんな人たちでしょうか。
でも、それらの人は、言動に重なる部分はあるけれど、根本的に違う人だと思うのです。

 


「想像できない」というのは、「わざと」じゃないのです。


だから永遠に変わらない。

 

 

自分に厳しい人と混乱や不安の中にいる人は、悲しさは想像できるので、いつかは変わるかもしれません。

 

 

子育ての始まりの頃、少し年上の素敵な子育て仲間がいました。

 

子どもの全てを受け止め、いつも明るく元気な人でした。

 

その人が人付き合いについて話していたのです。言葉ははっきり覚えていませんが。

 

色んな人がいて腹の立つこともあるけど、わざとじゃなかったらいいことにしようと思ってる、と。

 

そうですよね。確かに。

 


でも他人ならいいですが、自分の人生全体にとても影響のある人の「わざとじゃない」なら?

 

信じられないほどです。きっと。

 

信じられる程度まで無意識に補正しているかもしれません。

 

もしかしたら人生全体すぎて、気づかないかも。

 

 

そしていつか、わざとじゃなかったんだ、と気づいて、自分の感情を呼び出して確認していきます。

 

よかった、感情は生きてた、生きてた。

 

そしていつしか、切なくなるのだと思います。

わざとじゃなかった人と、その人を責めていない自分が。

 

切ない、という言葉には、愛おしさがほんの少し合わさっているようです。

 

人の心は、どこまで深く、どこまで優しくなれるのでしょうか。