生きているだけでいい。   大丈夫。

大好きだった父との時間をこれからもっと取り戻すはずだったのに、突然訪れた別れ。いつか、私の人生もなんとかなったよ、と空に向かって乾杯したい。その日まで続けたいブログです。

No.70 長男のこと

昨日はずっと長男のことを考えていた。

少し敏感なところやこだわりがある、でも無頓着なところはもっと多い、気持ちを切り換えるのは苦手かもしれない、知能はかなり高い。

朝起きられない、人の話が入らない、自分の思いをうまく伝えられない、したくない事はしない …。


こう並べるとやっぱり発達障害のように見えるけれど、小学校の時、当時評判で順番待ちだった児童精神科医にそれをはっきり否定された。

お母さん、趣味を見つけなさい、と言われた。


コミュニケーションの取り方で下手だなぁと感じることはあったけれど、確かに相手の微妙な心の動きまでわかっていた。

過敏というより繊細とも思えた。

朝が苦手ならスポーツを続けないだろう。


その後、小中高と10年間も厳しいスポーツを続けたのだから。

大学生くらいからはネットで何でも調べ続け、根拠のある納得できることは行動に移して揺るがなかったけれど、これもこだわりというよりは確かな情報を信用しているだけ、ということだろう。


でも、小学校の時には先生が放っておいてくれず、できないことだけを指摘された。

人から全部褒められて安心したい私は、認めてあげるのがさらに難しくなっていったのだと思う。


児童精神科医の、お母さん趣味を見つけなさい、は発達障害ではなくお母さんが原因ですよ、ということ。


本当は私は長男のことを、優しくて穏やかで賢くて感情も発想も豊かで、ダイヤモンドの原石みたい、と思っていたのに。

なのに、たぶん自分の不安や自信のなさのせいで、怒り続けてしまった。

今日で4週間

父がいなくなって今日で4週間。

2週間前の夜勤はよく頑張ったと思う。

別の人格になったみたいだった。
そうでないと勤まらないから。


自分の手を見たり、頬を触ったり、髪を撫でたり、背筋を伸ばしたり。
色々動かしてボディイメージを確認する。

大丈夫、周りから見ると全然普通、と自分に言い聞かせて無事に終わった。



世の中が普通に戻りつつある。

でも、何度か父にお菓子を買ったお店は入れなくなったし、実家に向かう電車にも乗れなくなった。

これから毎年3月と4月はただ早く通り抜けることだけを願って、無心に過ごすだろう。



まだ、もう一人の自分に託したい。
まだまだ本当の自分では無理。

特に夜勤はしんどいから。


でも、悲しみを書くこともできない人もいるのだから、そしてその人を助けることもできないのだから、せめて頑張らないといけない。

今日も頑張って外に出れば、私にでもできることに出合えるかもしれない。


今日は2週間ぶりの夜勤。
父も見ているから頑張る。

いいな、この人は

歩いている人を見て思う。

いいな、この人は大事な人を死なせたりしてないんだろうな。

いいな、この人は自分の子どもに嫌われたりしてないんだろうな。

いいな、家に帰るときれいに片付いていて、今日も頑張ったね、と自分に言ってあげるんだろうな。

いいな、この人は何でもすぐに相談できる人がいるんだろうな。
だから失敗も少ないんだろうな。


でも、本当は私の想像とは全然違うのかもしれない。


悲しみが数値化できて、余裕のある人がドン底にいる人に、何かちょっと助けてあげることができたらいいのに。


私は人に話すことはできないけれど、こうやって書くことはできている。

でも、悲しみの中で全く何もできない人もいるはず。


例えばマスクを配ったり体温計を配ったりしている企業の賢い人たちは、作れないのかな。脳科学者とかと一緒に。

どれだけ身体が表現しているか、どれだけ本人が訴えているか、に関わらず、人の痛み、苦しみ、悲しみを測るもの。


他に抱えているもの、支えがあるかないか、とかを色々総合評価して、その人がどれだけダメージを受けているか。

「慣れ」で減算はしないでほしい。


もしここまでができたとしても、その数値をどうやって共有して助け合うのか。


バカなことを考えて、日を稼いでいる。


ここまで書いて思った。

私はもしかしたら、ものすごいダメージだとの結果をもらって、それを乗り越えて誰かに褒めてもらいたいのか。


褒められたい、から始まった人生なんだから、最後までそれで通すのもありなのかな、とふと思った。

槇原敬之さんは

多くの作曲作詞をしている人だと知っている。

世界に一つだけの花、もそうらしい。

出たタイミングもよかったんじゃないかな。

ありそうでなかった詞、差別しないでいじめないでみんな認め合おう、と少しは意識が高まっていた頃だろうか。


私はまさに子育て中だったので、この歌を聴いて涙が出たり反省したりもしていた。


物語としてほのぼのするし、なんだか平和な気持ちになれたけれど、よく詞を追うと、槇原敬之さんが思っているよりは少ない人たちに響いたよ、と教えてあげたくなる。


だって、誇らしげにしゃんと胸を張っている、なんて最高の人生。
手に入れられそうにない人もいるんだよ。


一人一人違うって、自分のことは数に入っていないと思っている人もいるんだよ。


一番になりたがる、ということはスタートは切れているということだよね。


花を咲かせることだけに一生懸命になればいい。

どうぞ、と思った。

算数や国語よりも先に

自分を好きになりましょう、とかいう訳のわからない言葉に出合った時も混乱した。


自分なんてない人は何を好きになるの?
自分がないことすらわからない人は?

そんなこと誰も説明してくれない。

そして思う。


算数や国語よりも先に教えることがあるんじゃないの?


嘘をついたらダメとか、仲良くしないとダメとか、何でも食べないとダメとか、そんなことよりも先に。


いえもっと前、痛いねとか、嫌だねとか、嬉しいねとか、眠いねとか、抱っこしてほしいねとか、そういう言葉をたくさん使って、自分がいることを教えてあげないといけないんじゃないの?


でも、それを一番初めに教えてあげないといけないよ、と誰が教えてあげるのだろう。

自分らしくって?

そのままのあなたで。
ありのままで。
自分らしく。

わかったようなわからないような、でもなんとなくいいなと思ってきた。

新聞に次々とそんな言葉が載る時期もある。


もしも自分が小さい時に戻ったとして、どうなんだろう。

さぁ、周りを気にすることなんて全然ないよ、自分がやりたいことをしたらいいからね、あなたはあなただから、と言われたとして。

やりたいこと?

そんなのない。
どうしてほしい?
頑張って何でもやるから。
だって褒められたいから。


自分らしく?

意味がわからない。


それからもう少し大きくなったとして。

そのままのあなたでいいって?

ダメな自分を励ましてもらっているのだろうか。


今は、そのままのあなたでね、と言う人の優しさはわかる。

その優しさがなかなか届かない人のこともわかる。

私の文章なんかを

私の文章なんかを読んで下さる方がいて、申し訳ないと思うのですが、やっぱり、前向きでもない、希望もない、どうしようもない気持ちのままで書こうと思います。


明るくなること、楽しくなること、暖かくなること、すっきりすること、ためになることを、他の人みたいに伝えられたらいいけれど、私にはできない。

たぶんこれからもできないと思う。


この期に及んで人にどう思われるかなんて考えていたら、本当に人生が終わってしまう。


だから書きたい。
文字にして自分の気持ちを確かにしたい。

後悔、愚痴、恨み言、悪口なんて、どうにもならないけれど。

人に聴かせるのは申し訳ないけれど。



本当は聴いてあげる人生にしたかったな。

人に与える人生にしたかったな、と思う。