自分の人生を理解して清々しかったのは一瞬でした
アンカーのランです。
昨年7月のブログが過去の記事として下欄に挙がっていたので何気なく開きました。
自分の人生を理解するって清々しい、というタイトル。
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普通に家族と楽しい会話ができていても、いつ全てがなくなるかわからない不安。
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人生の最初の儚い人間関係は、半世紀以上経ってもまだその影を落としていて、こうして大切な家族と一緒にいても不安でたまらないんだな、としみじみ思う。
でも、不思議と清々しさもある。
自分の人生を心から理解するって、哀しくて清々しいものなんだな…
これを書いてから1年以上経ってわかるのは、清々しかったのは一瞬だったということです。
このお盆休み、次男が帰って来て、家族と過ごそうと思ってたから自分からはこっちの友だち誘ってない、と言ってくれても、仕事のある長男ができる限り都合を合わせてくれても、誰かの一言で全てがひっくり返るんじゃないかと時々不安に襲われます。
そして、子どもたちも成人しているのだから、それぞれの幸せのために家族が離ればなれになるのはいいとしても、もしかしたら離れた途端、忘れかけていた負の感情が子どもたちの中で大きくなって、20数年の長い家族の歴史の全てを覆ってしまうのではないか、という不安に続いています。
母はわざとじゃない、母なりに頑張っていた、みんな精一杯の年月だったのだから、というような気持ちには至ってくれないと思う、という残念さも。
でも私に対してどんな感情を持ってくれても、そんなことはもう本当にどうでもいいです。
負の感情が、兄弟の間で発生したもの、と脳が間違った記憶にまとめていきませんように。
ドキドキするのは本当は吊り橋が怖いからなのに、隣りにいる相手にドキドキしているのと勘違いする「吊り橋効果」みたいなことが、起きていませんように。
これからもそうなりませんように。
何かにつけてドキドキしていないといけなかった、いつも不安が渦巻く家。
太陽とはほど遠い母親。自分が不安だから怒って急かして、何も見えていない母親でした。
そのドキドキをもたらしたのは母である私だったのに、兄弟同士で、おまえがわるかった、なんて勘違いがいつまでも起こりませんように。
それにしても、自分の中に安心感がないのに人に安心感を与えるって、かなり難しい。
でも、願うだけじゃなくて、清々しいなんて落ち着くんじゃなくて、諦めずにとにかく行動です。