どっちでもたいしたことないよが聞こえない
アンカーのランです。
「判断」についてまだ考えていました。
考えてみると、毎日生きている限り誰でも「判断」の連続なのですね。
朝起きたら少し頭が痛いけど、顔を洗うよりまず薬を飲んだ方がいいんじゃないか。この服装で出掛けて問題ないか。折り畳み傘が見当たらないけど、探してでも今日は持って行った方がいいのか。
こんなことから始まって、信号が点滅しているけど止まったほうがいいか、前をゆっくり職場の人が歩いているけど追い越していいか、職場に着くと周りの様子を伺いながら様々なことについてリハーサルなしで判断…
今言っていいか、これは言わなくていいか、聞いてもいいか、どっちが先か…
書いていてバカらしくなりました。
こんなしょうもないことにどれだけエネルギー使ってるの、と自分にあきれます。
元々少ないエネルギーが底をつくはずですよね。
それほどエネルギーを使わずに判断できる人の方が多いんじゃないかな、と想像します。
でも一つひとつにエネルギーが要るのはもうどうしようもない。
なので、判断できた自分を労ってあげたいと思うようになったのです。
一つひとつにエネルギーが要るのは、判断ミスしたらどうしよう、という思いが潜んでいるからです。きっと。
そんなこと、どっちでもたいしたことないよ、という声が聞こえないからでしょう。
ずっと昔から聞こえないと思います。
心の中はいつも、どうしよう、ですね。
どうしよう、ももう友だちみたいなものですが。